創立者 水田三喜男

1.人材育成を目指して

水田三喜男は、明治38年(1905年)4月13日、千葉県案房郡曽呂村(現在の鴨川市)に生まれた。安房中学から水戸高校、京都帝大と進む間、地元の小学校で代用教員を経験。「この時以来、いつの日にか再び教育に携わりたい」との希望をもった水田はその後、東京市職員として勤務しながら専修大学の講師を務めた。
また、政治家となり戦後歴代内閣の大蔵大臣、あるいは自民党政調会長として「経済・財政の水田」とうたわれるようになってからは義務教育費の国庫負担、文教施設費国庫負担、私学助成等に尽力、戦後日本の教育振興に情熱を傾け、「教育の水田」の真価を発揮。

昭和40年4月、「現代および後世のために、国家社会建設の重責に耐えられる人材育成の場」として埼玉県・高麗川のほとりに城西大学を創立したのも「日本の国民は、これから国際社会で尊敬される国民にならなければならない」という日ごろの宿願を果たさんがためであった。

学校法人城西大学創立者水田三喜男

学校法人城西大学創立者 
水田三喜男
1905年(明治38年)~
1976年(昭和51年)
日々是好日の教育者
日本の国民は、これから国際社会で尊敬される国民にならなくてはならない。
難しい学問はともかくとして、とりあえず
(1)正直であって嘘を言わないこと
(2)自分のことばかりでなく、他人のことも考えること
(3)親を大切にすること
この3つだけでも身についた国民性と見られるようになったら大したものである
(「私の履歴書」昭和44年11月「日本経済新聞」所収)

2.戦後復興と経済成長の担い手

昭和21年4月10日、戦後初めての衆議院選挙が実施された。「戦争に負けて他国に占領された祖国を見て、何とか早く経済を立て直し、国民生活の安定を図り、独立を回復する仕事に若い一身を打ち込んでみたい」との情熱からこの選挙に出馬した水田三喜男は、以来、連続当選すること13回。30年10カ月の長きにわたって国会議員として活躍。経済審議庁長官(吉田内閣)、通産大臣(石橋、岸内閣)、大蔵大臣(池田、佐藤内閣で7回)などの経済閣僚を歴任し、さらに与党の政策形成・決定に全責任を負う政務調査会長(自由党2回、自民党5回)の立場からも、戦後の経済復興に全力を注いだ。次いで世界中が目を見張った日本の飛躍的経済成長達成を身をもって推進し、今日に至る国際的地位の向上に中心的役割を果たした。また、昭和46年8月に起きた米国の金ドル交換停止は、戦後の日本を代表する大蔵大臣として最大の正念場であったが、適切な決断と政策で、よくその危機を乗り切った。

衆院予算委員会で答弁する 「経済の水田」

衆院予算委員会で答弁する
「経済の水田」

【国政へ】 昭和21年4月10日 第22回衆議院選挙で初当選

【国政へ】
昭和21年4月10日
第22回衆議院選挙で初当選

【入閣】 昭和34年、通産大臣 岸信介首相、吉田茂元首相と共に

【入閣】
昭和34年、通産大臣
岸信介首相、吉田茂元首相と共に

大蔵大臣に就任・さまざまな活動

昭和35年7月19日、池田内閣が誕生し、初めて大蔵大臣として入閣。昭和36年度の予算編成は減税、社会保障、公共事業、そして教育を4本柱とするかつてない積極型となり、所得倍増計画となって現れた。

昭和21年4月10日 第22回衆議院選挙で初当選

昭和21年4月10日
第22回衆議院選挙で初当選

昭和42年9月リオ・デ・ジャネイロ IMF、世界総会

昭和42年9月リオ・デ・ジャネイロ
IMF、世界総会

円の切り上げ

昭和46年12月17日、ワシントンのスミソニアン博物館で10ヵ国蔵相会議開催。20年間以上、1ドル360円に固定されていた円レートは、19日に16.88%切り上げられ308円となった。

昭和46年9月18日 ロンドン10ヵ国蔵相会議出席

昭和46年9月18日
ロンドン10ヵ国蔵相会議出席

昭和46年12月17日 ロンドン10ヵ国蔵相会議出席

昭和46年12月17日
ロンドン10ヵ国蔵相会議出席

3.保守政治のリーダーとして

昭和45年2月17日、第63特別国会の冒頭、自民党政調会長として衆議院本会議の代表質問に立った水田三喜男は、壇上から「国会運営は政府主導でなされてはならない。いやしくも立法府を構成する議員の任期が行政府の一方的な恣意による解散によって左右されるが如きは民主主義の指向するところではない」と訴えた。
佐藤首相に向けられた堂々の論陣は、国の将来を思い、大衆の幸せを願った政党政治家・水田の見識と信念に基づくものであり長年、風雪に耐えてきたその真摯な政治姿勢にはだれもが感動と拍手を惜しまなかった。
衆議院は昭和46年3月2日、終生政党人の立場を貫いた水田を永年在職議員として表彰。戦後初の総選挙からの同期生で、歴戦の同士でもある村上勇氏らが、同年、水田をかついで『巽会』(水田派)を結成したのも「岸、池田、佐藤と続いた官僚内閣を抜けだして、党人内閣を作ろう」と考えたためだったという。

政調会長を7回務めた「党人政治家」

政調会長を7回務めた「党人政治家」

永年在職議員として表彰 衆議院本会議で万場の拍手を受ける

永年在職議員として表彰
衆議院本会議で万場の拍手を受ける

勲一等旭日大綬章を受賞(昭和51年4月29日)

勲一等旭日大綬章を受賞(昭和51年4月29日)

勲一等旭日大綬章を受賞(昭和51年4月29日2)

勲一等旭日大綬章を受賞(昭和51年4月29日)3

4.人間愛・郷土愛

房総に生まれ、成長し、やがて日本の将来と民族の歩むべき道をこの土地で思索した水田三喜男は、後年、「暖かき安房と上総の情けもて わが辿り来し今日を謝すべく」との歌に託して房州の暖かい人情と郷党の恩義を謝した。自ら身辺をきれいにし、辺幅を飾らず、野人的な風貌のなかで物事を深く考え、困難に面しても常に飄々として柔軟な姿勢でことに処してきた水田の人間性に、郷里の人々も大きな信頼をよせ、長きにわたって心から支援を送ったのである。
また、若いころから和歌や俳句に親しんだ豊かな感受性と、浮世絵収集から囲碁におよぶ広範な趣味、人間性溢れる人柄は多くの人々に愛されたが、病のため昭和51年暮、不帰の客となった。
衆議院は翌年、追悼演説のなかで「わが国が重大な局面を迎えつつある今日、練達の政党政治家であり屈指の財政経済の指導者でもあった先生を失ったことは、返す返すも残念であります」とその功績をたたえ、故人の遺徳をしのんだ。

天衣無縫の「人間・水田」

天衣無縫の「人間・水田」

浮世絵は楽し

水田三喜男の、若いころから和歌や俳句に親しんで育まれた豊かな感受性と浮世絵から以後におよぶ広範な趣味をもつ、人間性溢れる人柄は多くの人々に愛されていました。水田三喜男が収集した浮世絵コレクションは世界的にも有名で、菱川師宣をはじめ、写楽、歌麿、北斎、広重。鈴木春信の名作「六玉川」6枚がそろっているのは、世界でも水田記念美術館とニューヨークメトロポリタン美術館のみ。その色味は水田コレクションの方が勝るとも言われています。

「民俗の国際的融合において、その先駆的な役割を果たすものは、常にそれぞれの国固有の文化であることを考えると、我が国にとって浮世絵こそは何よりも貴重な存在である」と、来るグローバル時代を見つめて日本文化の重要性を先見していました。このような水田の考えは、日本文化を通して「世界の中の日本」を理解したグローバル人材の育成という現在の城西大学の教育につながっています。

東洲斎写楽 八代目森田勘弥の由良兵庫之介信忠 細判錦絵

東洲斎写楽
八代目森田勘弥の
由良兵庫之介信忠
細判錦絵

東洲斎写楽三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ細判錦絵

東洲斎写楽
三代目瀬川菊之丞の
傾城かつらぎ細判錦絵
●水田美術館WEBサイト
水田コレクションは、浮世絵を中心に200点余りからなり、浮世絵の発生期から近代日本画に至るまでその発展過程を所蔵作品によってたどることができます。また、稀版画を含む9点の写楽作品を所蔵しております。

水田美術館サイトはこちらからご覧ください。

水田美術館

5.学問による人間形成

「他人によって作られた環境であると思うところに不平と不満はおこる。自らの手によってこれから新たにつくるべき社会であることを観ずるならば、学びとった、知識、経験、自覚は常に自らに勇気を与える。人間の形成は完成された環境のみに求め得られるのではなく、新たな環境を作り出さんとする苦悶と努力の中にこそ求められる。一期生として創立期の学生とし、こうしたことを経験し、学びとることができれば、それは、皆さんの人生における最も重要な礎石となる。」(創立者の水田三喜男初代理事長による城西大学の第1回卒業式告辞(1969年)からの一部要旨抜粋)

学生と語らう水田

学生と語らう水田

昭和44年3月城西大学第1回卒業式

昭和44年3月城西大学第1回卒業式

創設者銅像

創設者銅像

学問による人間形成_

6.水田三喜男略年譜

明治38年4月13日千葉県安房郡曽呂村に出生
大正元年4月曽呂村尋常小学校入学
大正13年3月千葉県立安房中学校卒業
昭和6年3月旧制水戸高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業
昭和9年1月26日町田均氏次女清子と結婚
昭和21年4月10日第22回衆議院選挙で自由党から出馬、初当選
昭和27年1月23日自由党政調会長
昭和29年7月29日自由党政調会長
昭和30年11月15日自由民主党結成、初代政調会長
昭和31年12月23日石橋内閣、通産大臣
昭和32年2月25日岸内閣、通産大臣
昭和35年7月19日第1次池田内閣、大蔵大臣
昭和35年12月8日第2次池田内閣、大蔵大臣
昭和40年1月25日城西大学創立、初代理事長
昭和40年4月20日城西大学開学式、初代学長(理事長兼務)
昭和41年7月29日自民党政調会長
昭和41年12月3日第1次佐藤内閣、大蔵大臣
昭和42年2月17日第2次佐藤内閣、大蔵大臣
昭和45年1月10日自民党政調会長
昭和46年3月2日永年勤続議員表彰(連続11期衆議院議員)
昭和46年7月5日第3次佐藤内閣、大蔵大臣
昭和47年1月5日日米首脳会議(佐藤栄作首相、水田三喜男蔵相、福田赳夫外相、田中角栄通産相)
昭和51年4月29日勲一等旭日大綬賞叙勲
昭和51年12月22日病気にて急逝、享年71歳、従二位に叙位される
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